薩摩の英雄

幻の名宰相 小松 帯刀(こまつ たてわき)

小松帯刀

小松帯刀は、1835年(天保6年)に、薩摩国下原良村(現在の鹿児島市原良町)にて、喜入(現在の鹿児島市喜入町)領主肝付家の三男として生まれました。肝付尚五郎と名付けられますが、1856年(安政3年)、尚五郎21歳の時に、薩摩国吉利(現在の鹿児島県日置市)領主であった小松家の養子となり家督を継ぎました。百姓たちの仕事を労い、若い者とは相撲大会を催し、その後の宴では無礼講で積極的に村民と話をするその姿はやがて薩摩藩全体に「名君あり」との噂を広めます。それは薩摩藩殿様島津久光にも伝わり、側近に任命されると、その政治手腕は頭角を現し、弱冠27歳で家老となります。軍事、政治などはもちろん、特に財政、教育、商工業などの分野で活躍しました。手腕や技術だけではなく、優しい人柄も、多くの人々から愛されました。

薩摩藩28代当主島津斉彬の急逝後、その意志を継ぎ、薩摩藩の産業発展に力を尽くします。「薩摩の小松か、小松の薩摩か」と志士たちに噂されるほどの活躍ぶりで、西郷隆盛や大久保利通などが自由に動き回れるよう、人望の篤い小松帯刀が藩主と彼らとのパイプ役を果たしました。また、土佐藩の浪人に過ぎなかった坂本龍馬が幕末に活動し大きな功績を残せたのも、薩摩藩家老という身分を持った親友小松帯刀の協力があったからこそと言われています。

明治維新の大きな原動力の一因となった薩長同盟は、京都の小松邸で締結されました。「性格の実直さ」と「思考の柔軟さ」を兼ね備えた帯刀は、他勢力との交渉時に力を発揮し、功績を残したので、明治維新後も、その能力を買われて外交官副知事まで上り詰めました。

しかし、1870年(明治3年)に36歳という若さで病死してしまいます。もしももっと小松帯刀が長生きしていたら…彼の夭逝は未だに惜しまれつつ、その偉大な功績は今も薩摩の誇りとして輝き続けています。

年表

文久元年(1861)島津久光にその手腕力量を認められて側役に昇進し、久光の側近となります。文久二年(1862年)には、薩摩藩家老に昇格。帯刀が弱冠27才の時でした。

一藩の軍事・財政・教育・商工業などをその若い双肩に担い、島津久光の有能な懐刀として活躍。産業、通商を盛んにし琉球・清国をはじめ諸藩と交易することで藩の財政を豊かにし、教育・軍備のための資金源として注ぎ込むことで藩の活性化・近代化に貢献しました。

その一方で、西郷隆盛、大久保利通ら、近代日本史に残る英傑の才能を引き出し、彼らへの支援を行っていました。その卓越した政治手腕で、交流のあった坂本龍馬らとともに、明治維新を支える重要な人物になってゆきます。

文久2年
(1862年)
家老に命じられる。
安政3年
(1856年)
吉利領主小松清猷(きよみち)の跡継となり、小松帯刀清廉(きよかど)と改名。
慶応元年
(1865年)
坂本竜馬に協力し、長崎の亀山社中(後の海援隊)を援助。
慶応2年
(1866年)
京都の小松帯刀屋敷において、坂本龍馬・小松帯刀立会いのもと西郷隆盛と木戸孝允との間で薩長同盟を成立。この薩長同盟など幕末に行われた重要な秘密会議は、殆どが京都二本松の小松帯刀私邸で行われたといわれます。
慶応3年
(1867年)
京都二条城会議で将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告。王政復古の実現に大功。
この大政奉還を前に新政府の人事構想が話題になったとき、坂本龍馬が推薦した人物を紹介すると、1)小松帯刀、2)西郷隆盛、3)大久保利通、4)木戸孝允、5)広沢兵助、となっており、幕末当時の志士の間で大きな評価を得ていたことが分かります。
明治元年
(1868年)
明治政府の発足にあたり、参与職と総裁局顧問になり、明治維新後も参与や外交事務掛などの要職を歴任。
明治3年
(1870年)
36歳。大阪で病没。
幕末史上、帯刀が果たした役割は極めて大きく西郷・大久保らの働きを、小松帯刀の存在を抜きにしては語れないのです。存命であれば以降の明治の歴史に大きな影響を与えたはずの、歴史通が識る人物。周囲の誰もが惜しむ早すぎた死でした。

こぼれ話 その1

明治維新の推進者で、実現を前に非業の死を遂げた土佐の坂本龍馬はよく知られていますが、龍馬と小松は同じ天保6年生まれ。

龍馬は大政奉還の直後に33才で刺客の手に倒れ、帯刀は新政府成立直後の明治3年に36才で病に倒れていますが、実は二人は同じ激動の幕末をすすんだ若者同士として交流がありました。

2人の出会いは、元治元年(1864)です。当時、神戸には軍艦奉行勝海舟の建言により幕府が海軍操練所を設置しており、龍馬はその塾生の一人でした。龍馬以下30余名の塾生を、帯刀が大阪の薩摩藩邸に引き取ったのが始まりです。

その後、寺田屋騒動で傷を負った龍馬は、妻となったおりょうと共に、当時すでに薩摩藩家老であった小松帯刀を二人で訪ね、しばらく小松邸に逗留しています。これが「日本最初の新婚旅行」といわれ鹿児島に二人の像が建っています。

こぼれ話 その2

明治維新の前後25年も日本に滞在していた外交官のアーネスト・サトウ氏はその激動の歴史の中で小松帯刀とも関わりを持っていたが、彼の著書「一外交官の見た明治維新(上)」の中で「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物、家老の家柄だがそういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり態度がすぐれ、友情が厚くそんな点で人々に傑出していた。」と言い、薩摩の蔵屋敷の土地として購入していた神戸の敷地を外国人居留地として帯刀が申し出たエピソードも記しています。

また帯刀は、薩長同盟の翌年、大坂(現大阪)での彼の昼食会に招かれたさい、「脂肪の多い肝のパテや、薄い色のビールをうまそうにぱくつき飲みほし…」と、上機嫌になった帯刀が同じ宿舎内にいる徳川家臣らに酔った勢いで秘事をもらしはせぬかはらはらした様子も書かれています。

こぼれ話 その3

帯刀の第二夫人になった琴仙子は、芸技、学問にも優れ和歌の道にも秀でた京都祇園の名妓とうたわれた女性。

帯刀が京都から鹿児島へ帰る時、琴仙子へ贈った歌、またその返歌が残っています。

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